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*先日頭がバグって朝から皇居に行った。朝からなので大手町駅を歩いてるときに変な気持ちになったりした。じっくり歩いてみると結構広い土地だなと感じ入り、いろいろと見回っていた。それにしても大火で焼けた天守閣を以後200年以上放置し、中心がなくなったこの街を明治になって改めて中心と据えたのだとおもうと、あらためて東京は変な都市だなという感想が浮かぶポケモンはすごい数でてきた。外国人観光客がとにかく多くて何度か撮影を頼まれた。

*…いや別に、皇居が目的なのではなくて、MoMATの「日本の家」展を観に行ったのだった。戦後住宅建築は何を観ても飽きない。たのしい。死ぬまでに『コアのあるH氏の住まい』とか『白の家』とか入ってみたいし、あれば『中野本町の家』も体験してみたかった。いくつか初見のもので気に入ったものもあった。ぼくはとりわけ、住宅建築の軽さの表現が気に入ってるらしいことに気づいた。なので原寸大で再現されていた『斎藤助教授の家』にはもううっとりするほかなかった。

*展覧会を構成するにあたってフーコーをひいていたので、そこで膝を打ち、後日「ニーチェ、系譜学、歴史」を読んでいた。系譜として考えるという軽やかさ(緻密ではあるものの)をすっかり忘れていた気がする。

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中辺路の牛馬童子像。この夏に突然寄った。本宮にも、新宮にも行った。新宮から名古屋に向かって上ろうとしたとき、熊野の花火大会があるらしいことを知った。へえ、と思ってそのときは通り過ぎたけど、あとでうちに帰ってMacを立ち上げたら、そのときの壁紙こそ熊野の花火大会だった。どこのともわからず「花火 壁紙」とかで検索して拾ったものだったから、合致したときに軽く驚いた。一度行ってみたい。

熊野に寄ったあとで、漂白の思いに駆られてふと中上健次の『紀州』を手に取る。初めて『枯木灘』を読んだときは、和歌山に暮らす祖母の話し声がそのまま活字になっているかのようで仰天したものだが、ここに広がっている聞き書きにもその抑揚の妙を感じる。

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*夏にゲリラ豪雨を案じるようになってこのかた、稲妻を見るとついついカメラを手に取りがち。これは7月中頃。いままでで一番大きく、とても綺麗に写ったもの。こうやって見返しても惚れ惚れする。雷の、というか電流のイメージは大事。電流こそ素早いもののイメージそのものだから。思考が詰まると雷のことを思い浮かべたりする。これはいつもそう。

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*富山、岩瀬浜。一昨年から毎年通うようになった利賀に今夏も行き、その帰りに富山駅で時間を潰そうとおもったところ、トラムでずずずっと北上すると海まで行けちゃうみたいだとわかり、それで思いついて即浜辺。東京は雨だらけの変な夏だったなか、こうして首都圏を離脱してぼけっとしていると狂ったアタマも胃袋もほどかれていく。

 海水浴は数えるくらいしか行ってない。小さいころ父の会社の社内行事かなにかで大洗まで行って地引網をしたことは覚えてる。網に絡みついた小魚がいて、おじさんが手際よく頭をちぎって投げ捨てたのがなんだか記憶にこびりついて離れない。

 でまあ海に来ても何しようかな…という感じになる。裸足になって火傷しそうになったりしてアワアワしたあと、持っていたレコーダーを取り出して波打ち際ギリギリまで寄ってしばらく録音 をしてみた。海はしずかで、波の音に干渉してくるノイズがないから、小さな泡が弾ける音までよく聞こえる。波がなければ無響室みたいだと錯覚すらする。ここはれっきとした海水浴場で、instagramを開けば水着とSnowとGoProが無限に繰り広げられている。だけど月曜の午前中だからか、遠くにみえる二人の釣り人を除いて誰も居ない。

 海沿いに住む音楽家はさぞ音の聴き分けがいいだろうな、と唐突に思う。街中に暮らしていると建物やらなにやらが有象無象の反響板となって、出どころもしれない大量の物音を浴びせてくる。それを遠くにやり過ごしながら自宅で横になってたりすると、あたりがうるさいんだか静かなんだかわからなくなってくる。海水が音を吸収するんだろか。あまりの静けさにしばし呆然として、録音も長くなってしまった。

*このブログ4年も経ってる。そんな前に始めたとは思ってもなかった。twitterをはじめ各種SNSは定期的に内容を見返して削除しているので(これも小心者ゆえ)、まとまった年月の自分を見返すとなると、俄然このブログが良い感じに見えてくる。まあブログだって作っては止めの連続なんだが。

 アーカイヴが厚くなってくると妙にそわそわしてくるのは、古い自分の投稿がおそろしいからか。これらすべてが一人の同じ人物から発せられたことに卒倒しかけちゃう。つくづく無責任である。しかしうまく忘れてみたり、思い出す気分を削いでやる術もまた必要。浜辺で撮ったこの写真を眺めるとそういうことを思ったりする。浜辺には余計な音がなかった。水に歴史はないんでしょう?

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 この冬は大半の時間アルベニスと一緒に過ごしてる。

この作曲家の書く作品はとにかく触覚に訴える。『イベリア』や『ナヴァーラ』のそこかしこに撒き散らされてる手の左右の交差は、譜読みの面倒くささとは裏腹に、和声構造を手の置き方で示してくれるので、たとえば複雑珍妙な内声もスラスラと腹に入れることができるし、和音ごとに肝になっている音もすぐ突き止められる。それを弾いてみると、こんどは手の交差が和声の透明な響きとして作用する。右手で一気に弾くのではなく、真ん中の音だけ左手で弾いてもらう……たったそれだけなのだけど、その効果は絶大。要するに打鍵のための力を巧妙に操作しているわけだ。このあたりに、アルベニスがとても厳格な和声の教育を受けたらしいことをうかがわせる(たぶんその教育は、ダブルシャープ/ダブルフラットの濫用、臨時記号規則の墨守という副作用もともなっているはず)

アルベニスは、たとえばバッハ、ベートーヴェンワーグナーなどといった作曲家たちの系譜とは外れる。近い作曲家といえばおそらくリストやショパンだが、むしろたぶんスカルラッティをその祖先として見出した方がいい。観念的な音響空間のなかで聴くのではなく、どちらかというと音響を手の感触で感じていくタイプの作曲家たちの系譜。そう考えるとジャンケレヴィッチが『遥かなる現前』でしばしばムソルグスキーの名前を併記しているのは合点がいくところ。アルベニスムソルグスキーは、触覚という点では光と闇の関係にあるようにおもう。音を指先との接点において際立たせるアルベニスと、指先を網膜のようにして音(楽)を視ようとするムソルグスキー。個人的には演奏のヴィルトゥオジティについて考えようとするときは、この点にしか興味が湧いてこない。そしてその観点は、特に第二次大戦以降急速に忘れられている気がしてならない。(高橋悠治のような際立った例外がいるにしても。)僕の音楽的鉱脈はどうやらこの辺にあるらしい。

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Amazonで宅配してもらうより、ヨドバシカメラで注文して店舗受け取りを使うほうが何かと良いことに気づいた。生活圏にヨドバシカメラがあることをもっと有効活用するべきなんだな。

* 毎年恒例アワアワする秋冬の到来。半月に1つ以上の〆切を抱えて4月まで突っ走っていくことになった。毎年計画は立てるが、大小さまざまなレベルの失敗がおきるごとに、脇腹を刺されたくらいの痛みを感じる。で、引きずる。今年はもう最初から最悪を想定しておくようにした。ぜんぶ達成できないオレ。本当にそうなったら海岸で禊でもするかなにかするか。

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102

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バタバタと過ごしてるあいだに夏が終わり、挿し木して2年目のポトス各位がすごいことになってきた。盛ってる。しかも見た目が悪い……。もう秋だし今からいじるのは怖いから、ごまかしながら来年の春まで我慢するしか。

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今年はMaxに向かう年。梅雨明けから腰を据えて取り組んでる。

これはWatts-Strogatzモデルを実装しようとしているところ。数IIIまで習ったものの全部あやふやな僕なので、ヒーヒー言いながらグラフ理論を入門して幸いまだ絶命には至っていない。左のパッチでネットワークを生成し、後に繋ぐオブジェクト(probとかcollとか)用に加工して出力。右は出力されたネットワーク(辺リスト)を分析してノードとエッジと置換されたエッジの数(確率)を報告させる。まだまだ動作が不安定だけれど、いちおう実演で使えるくらいにはなってきた、はず。

ここから譜面のリアルタイム生成につなげていきたい。秋にいくつか試演予定で、やや急ぎ足!

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上野公園は連日トレーナーたちが大挙。夜中でも雨でも関係なし。すっかり風景が変わった。あまりにも簡単に人の流れが変わったのでおもしろい。それに自分も紛れてよく公園を徘徊している。順番にポケストップをめぐりながらアイテムを補給しながらのポケモン漁業&孵化のための移動距離稼ぎ。たいていは電池40%でのスタートなので、30分程度。

人が下を向いてポケモンをやりながら歩くようになった、というよりも、ポケモン空間が人間を通して現実空間で見えるようになった、という感覚を持つ。ポケモン空間上のトレーナーの位置が現実空間に人間でマッピングされている。

まどみちおの詩が頭に浮かぶ。「ぼくが ここに いるとき ほかの どんなものも ぼくに かさなって ここに いることは できない」ポケモン以後、これは真っ向から否定される。ARではどんなものも、重なることができる。そうすると空間は二つある。物同士が透過しないで衝突する空間と、透過して重複ができる空間。50匹のピカチュウが全く同じ位置にいることができ、方々からモンスターボールが飛んできて一匹ずつ捕まえることができる。してみるとわれわれは、衝突する世界にいながら透過する世界にアクセスしていることになる。これはどういうことなんだろう。透過する物たちを、衝突する物体を媒介して操作する、とは。

あるいは音楽について考えているのかもしれない、と思う。音楽も音同士は重なることができる。音は衝突しない。透過し重複する音たちを束ねることを和音とかいう。ただし五線上では同じ音の重複をうまく書きあらわすことができない。これも、衝突空間を介した透過空間内の操作のうちに入る。調和という状態は、透過するものたちのあるひとつの秩序を言っているのだろうか。

とかなんとか思いながらいつも上野公園を歩いている。いまのところポケモンの最大の愉しみは、同時に複数の空間に居ることができる、ということだ。

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