095

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 ついにiPhoneを購入した。先月までインフォババアC01という、動作がグズグズになって最終的には着信が来てもフリーズして応答出来なくなるとかいう恐るべきスマートさを見せつけた携帯電話を使っていたので、それに比べると文明が違いすぎて震える。で、月の頭に購入してから、普段Macで使っているAppを中心に落として試したりしつつ、なんとか現代に追いつこうとしている。
 なかでも音声入力の正確さには驚くばかりで、毎日プライベートでつけている日記というか雑文は、iPhone購入以来ほとんど音声入力で済ますようになった。それからカメラを使った文書スキャンAppも、なかなか良い動きをする。未来だなあ、とぼんやり思ったりする。
 そして予想してた通り、写真を撮りまくるようになって、その流れでInstagramの利用度が増えた。よく分からない新機能たちによってタイムラインの主導権すら奪われてしまったTwitterFacebookに比べれば、今はInstagramが心地よい。写真を投稿し、いいね!と短いコメントを投げ合う簡潔さが守られていれば事は足りるわけだ。
 カメラがらみでもう一つ、このごろ電車に乗っていると、3回に2回くらいの割合で車内に大きなシャッター音が鳴り響くことがあった。こんなとこで何を撮ってるんだろうといつも不思議だったが、あれはスクショだったのでは、と思うと合点がいく。そして同時に、スクショはこれほど頻繁に使われているのか、とちょっと驚く。
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094

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育ち盛りのポトスたちを寒くない場所へ移動してみたところ、部屋の壁にゴーストが出没するようになった。

あと、棒のようなinfobar C01をやめて、ようやくiPhoneに変えようとしているのだが、手続きしに行った店舗の対応が悪くて気持ちが下がったり、免許をもってないので本人確認にドエラく苦労していたりしてる。精神が濁りまくっているのは全部低気圧のせいか。できるならそうしたい。

それでまあ、こういう投稿もinstagramに投げることが増えるかもしれない。特に考えてないけど。

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093

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 秋吉台についてまとめられるほど落ち着くまでに時間がかかってしまった。とある案件が難航してしまったせいで、これは仕方のないことだが、そうこうしているうちにもうすぐ10月!この時期にもなると、そろそろ今年の終わりにも目がいくようになる。大学入ってから毎年そうだが、10月が始まったなと思うと年が明けて、年が明けたなと思うと3月が終わっていたりするので、なかなかこれからの季節は難しい。

 さて、新曲を書かねばなるまいということで頑張っている。もともと僕は音のキャラが活きたまんま繋がっていけばそれでよし、という大雑把な態度をとるわりに、全体の構成を考えることにやたら時間をかけがちなところがある。そして、全体の構成を決めるものの、キャラの連接が常に構成を裏切る可能性に悩んでは筆が止まる。細部の連接と、大局的な流れのどちらも十分に検討したい、と考えがちなのは、これもおそらく、勉強不足からくる強迫観念なのだろう。

 秋吉台では、演奏者を信頼することについて、いくつかの洞察を得ることが出来た。ある先生のレクチャーで、奏者から音楽性を引き出すための方法として、タテを合わすという発想を捨てることにした、という話があった。そこで紹介された曲には、いわゆるスコアが存在しない。その代わりそれぞれのパート譜に、この音が聴こえたらやめる、この楽器の次に演奏する、といった個別の関係性を明示する書き込みがある。このような楽譜を通してつくられた演奏は、とても活きたテンポ感に貫かれ、爽やかな時間の流れをつくる。細かい記譜の現代曲で往々にして現れる「規律訓練めいた拍感」が、ここにはない。これには唸らされた。

 この音楽を成立させるためには、音楽素材自体のキャラクターを「信頼」しなくてはならない、と、さる先生はいう。同時に、奏者をどこまで信頼できるか、とも。この態度に踏み切るには、並大抵の音楽的経験では足りないだろう。まず音楽を身体で感じ取り、そのときの記憶をあとで別の音楽や言葉で構成させる、という経験を何度も積んでようやく到達できる態度だ。簡単な道ではない。今の僕にはまだ足りないところである。

 が、足りないだけで、資格がないわけではない。自分の身体と格闘する資格すら奪われたらたまらない。次に書く曲からしばらくは、そういう格闘の連続になるのだろう。そんな自覚があるので、まずは音のキャラを真面目に活かすことを考えていこうと思っている。この方針だと全貌を見通すことが難しい。それは大きな不安をともなう。はたして打ち勝つことが出来るだろうか。

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092

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ポトス剪定からもうすぐ5ヶ月。だいぶ葉が増えてゴチャゴチャしてきた。7月に気合い入れて土と鉢も買っておいたけどバタバタ過ごしてるうちに植替えの時期を過ぎてしまった。また来年……これから寒いこの家でなんとか生き抜いて欲しい。

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091

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秋吉台から帰ってまもなく、こんどは富山・利賀へ行って4日間滞在した。滞在中は雨が降ったりやんだりで、昼でも涼しかったので長袖が欠かせなかったが、ジリジリとした日射しに焼かれるより良かったかもしれない。基本的に外にいた上にテント泊だったが、不思議なことに、一度も蚊に刺されることがなかった。

勇気を出して行ってみるものだった。滞在中に観劇した8つの演目全てが素晴らしかった。舞台の完成度が常軌を逸するほどで、選べば枚挙に暇がないが、特に『リア王』『エレクトラ』『世界の果てからこんにちは』『トロイアの女』は、衝撃的な舞台だった。相当高度な訓練を積んでいるのだろう。韓国、中国の劇団の演目も、興味深いところがたくさんあった。特に韓国のほうは二度観れたことが良かった。

滞在中には、東京ではシュトックハウゼンのStimmungの演奏会があり、ずいぶん評判が良かったらしい。またその次の日には国会前の大規模なデモがあり、親しい方が何人もそこへ足を運んでいるようだった。しかし僕はそれでも、利賀を選んでよかった、と思っている。東京に戻ってきて以降、日に日に利賀で得られた感覚が確かなものになっているように感じる。

今月は夏休み後半、遊ぶ予定をいれず、じっくり制作と勉強に充てることにしている。忙しくなる10月までに、前言撤回のかたちになるが、少しこの8月のことを、これからぽつぽつと書き記しておきたい。

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090

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 8月後半は2回東京を離れることになっている。そして昨日その一回目を終えて、ほぼ一週間ぶりに自宅にいる。

 噂にきく秋吉台の現代音楽セミナーに参加してきた。かつて1990年代に国内外の「潮流」を担う作曲家や演奏家たちがこぞって訪れ、またなんでこんな場所で現代音楽なんぞ、と訝しみながら参加した受講生たちの大多数が今なお作曲家として生き残って世代を形成し(これはとても異様なことだ)、果ては大阪万博ですら結実しきらなかった音楽・建築・思想のクロスオーバーを、東京でも名古屋でも大阪でもない山口の山奥で成し得てしまったという、戦後日本音楽史(というものがあるならば、)のなかで圧倒的な功績を誇るセミナーが、山口では四半世紀も続いていたのだ。

 セミナーの様子を詳しくここに書くつもりはない。もちろん個人的な宿題はいくつか持ち帰ってきたのだが、それをここで独白するのも野暮かなと思っただけだ。全体的には良い感触も悪い感触も、同じ程度感じた。ただし悪い感触といっても、東京で感じて自宅で塞ぎ込むいつものものとは違って、風通しは良いというか、前向きに考えられるものではある、と思う。

 ちなみにセミナー会場にはほとんど電波が入らなかった。なのでインターネットやメールはおろか、電話すら繋がらない環境でしばらく過ごしていた。テレビもなく、新聞はあったけど見なかったので、世の中の状況は一切分からなかった。それはもう気持ちのよい時間だった。電波がないという理由だけで、また来年も通いたいとすら思う。

 写真は最終日に寄った秋芳洞。ここには絶対に神仏か仙人がいたと思う。普段は考えもしないが、秋芳洞のなかでは、神の存在を思わずにはいられなかった。

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089

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 記憶違いでなければ、梅雨が明けてから一度も夕立に遭遇していない。傘を持った覚えがない。こう猛暑が続くと、僕のまわりだけザッと降ってくれたらいいのに、と都合のいいことを思ったりする。そんななか、先日の夜には隣町にゲリラ豪雨が現れ、久しぶりに鮮明な稲妻を見た。稲妻は綺麗だ。遠くで見ている分には。

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088

 イタリアに思いを馳せている。最近枕元に地図を置いて、ぼんやり眺めたりするようになった。イタリアには火山があるんだよなあ、とか、トリエステの位置ここなのか、とか、基本的にマヌケな見方をしている。

 そんななか、兼ねてから読んでみたいと思っていた須賀敦子さんの著作を、今が絶好のタイミングだろう、と踏んで読み始めた。そして今じわじわと、その効用を噛み締めているところだ。

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

 

 

ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径)
 

 最初に『コルシア書店の仲間たち』を読んで、須賀さんの、友人や、街や、さまざまなものへの眼差しの温度に触れる。自意識の鬱陶しさもなく、残酷なほど突き放した感じもない。ただ適切な距離があり、抑制された語り口があり、そして豊饒な知性の裏支えがある。最近の嫌な雰囲気、日々の不穏さに疲れ果てた身には、凡百の薬よりも須賀さんの言葉が効くようだ。一冊目が読み終わって、その手を休めず二冊目『ミラノ 霧の風景』を今読んでいる。

 夫人の得意なドイツ文学、とくにトマス・マンの作品について、話がはずむこともあった。あるときは、『ブデンブローク』派と『魔の山』派にわかれて、議論が伯仲した。とはいっても、こういった場所での議論というのは言葉のテニス・ゲームのようなもので、ひとりがコートの『魔の山』側に立って球を打つと、いち早く、だれかが、反対側から『ブレンブローク』の球を打って返すという感じの、さわやかな遊びだった。そんなとき、還暦をすぎたフェデリーチ夫人の、生気にあふれた黒い目は、コートに降り立った少女のように、きらきらとかがやいた。[...]

「夜の会話」より(『コルシア書店の仲間たち』)

  須賀さんの文章を読んでいると、自然と文字を追う眼のスピードが少し遅くなる。それほど言葉の咀嚼を喚起させるものがある。この一節は話の傍流なのだが、さわやかな遊び、というフレーズに一瞬行を追う眼が止まる。遊べているだろうか、それもさわやかに。……などと、自分にむけて野暮ったい説教を吹っかけそうになる。

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087

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先日、親が職場で貰ったというシャーペンをくれた。ドイツの老舗メーカー、ファーバーカステル社の平芯0.5x2mmシャーペンと、HBの替芯1ダース。調べてみると、50年代後半から70年代にかけて生産、流通していたものらしい。日本国内でも売られていたかどうかは分からない。

見ての通りノック式ではない。分解してみると厚い螺旋状の金属板と、うしろに爪がついた芯のホルダー、あとスプリングだけで構成されている。先端部分を時計回りに回すと、なかで螺旋状の金属板が回転して、それにツメが引っかかって芯が押し出される、という仕組みになっていた。

さてどう使おうか、と思案している。絵でも描けたらいいんだけどそういう才能には恵まれてないので、思いついたところでブラックレターを書いてみたりした。芯の滑り方に慣れなくて難しい。

そうだなあ。楽譜を書くとしたら、7mm以上の五線紙でないと音符は少し難しいかもしれない。しかしこれで大括弧を描いたら相当気持ちよさそうだ。最近はめっきり手書きをすることが減ったけど、せっかくあるのだし使ってみようかな。替芯もおそらく一生分あることだし。

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