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 この冬は大半の時間アルベニスと一緒に過ごしてる。

この作曲家の書く作品はとにかく触覚に訴える。『イベリア』や『ナヴァーラ』のそこかしこに撒き散らされてる手の左右の交差は、譜読みの面倒くささとは裏腹に、和声構造を手の置き方で示してくれるので、たとえば複雑珍妙な内声もスラスラと腹に入れることができるし、和音ごとに肝になっている音もすぐ突き止められる。それを弾いてみると、こんどは手の交差が和声の透明な響きとして作用する。右手で一気に弾くのではなく、真ん中の音だけ左手で弾いてもらう……たったそれだけなのだけど、その効果は絶大。要するに打鍵のための力を巧妙に操作しているわけだ。このあたりに、アルベニスがとても厳格な和声の教育を受けたらしいことをうかがわせる(たぶんその教育は、ダブルシャープ/ダブルフラットの濫用、臨時記号規則の墨守という副作用もともなっているはず)

アルベニスは、たとえばバッハ、ベートーヴェンワーグナーなどといった作曲家たちの系譜とは外れる。近い作曲家といえばおそらくリストやショパンだが、むしろたぶんスカルラッティをその祖先として見出した方がいい。観念的な音響空間のなかで聴くのではなく、どちらかというと音響を手の感触で感じていくタイプの作曲家たちの系譜。そう考えるとジャンケレヴィッチが『遥かなる現前』でしばしばムソルグスキーの名前を併記しているのは合点がいくところ。アルベニスムソルグスキーは、触覚という点では光と闇の関係にあるようにおもう。音を指先との接点において際立たせるアルベニスと、指先を網膜のようにして音(楽)を視ようとするムソルグスキー。個人的には演奏のヴィルトゥオジティについて考えようとするときは、この点にしか興味が湧いてこない。そしてその観点は、特に第二次大戦以降急速に忘れられている気がしてならない。(高橋悠治のような際立った例外がいるにしても。)僕の音楽的鉱脈はどうやらこの辺にあるらしい。

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